「そんなことないよ、楽しいよ」
「え?」
その日の下校時、校門から続く下り坂で彼に出会った。
思い切って一緒に帰らないかと誘ってみた。この前一緒にバス停まで帰った時はわりと話が弾んだからだ。
ダメもとと思いつつも、もし断られたら。そうも思ったが、彼は笑顔であっさりOKしてくれた。
嬉しい反面、疑問も少し残る。私のような話し下手で地味な女の子と一緒に帰って楽しいんだろうか? 誘っておいてそんな事を聞くのもおかしいが、思い切って聞いてみた時、彼はそう答えた。
予期していたかもしれない言葉。いつか誰かから声をかけてくれればと願っていたかもしれない、それでもたぶん聞くことはない。いつの間にかそう思いこみ、思い込むことが当たり前すぎてそう思う事さえ忘れていた言葉。
軽い驚きとともに交わしていた目線が離れる。その一瞬、私の頭の中には昔のとある記憶が流れていた。
「かおりちゃん、つまんない」
同級生の女の子がわたしを少し見下ろしながら、目の前ではっきりと言った。
そんなこと言われても……、突然そんな事を言われても、わたしには何も言い返すことができない。
「え……」
「はなししても、おもしろくないもん。なんか、くらーいし」
「それは……」
「ねえ、あっちいこ」
その娘は他の娘を連れて波打ち際へと走っていった。数人は少し行くのをためらったが、結局走り去っていく。辺りから同級生がいなくなった。はしゃぐ声だけが少し離れたところから無数に聞こえてくる。
(わたしは、つまんない……、のか)
ゆっくりと足元の砂浜に腰をおろす。
今日は小学校の遠足。場所は少し遠くにある砂浜。早足の大人なら訳もないが、子供の足では少し時間がかかる。特に本を読むのが好きであまり運動をしない子にとってはけっこう大変な距離だった。
遊びの時間になり(休みの時間、ではない)クラスの中でいくつかのグループに分かれ、その中で遊ぶ事になったとき、わたしはグループの中から外された。はっきりものを言う少しわがままな子の一言で、普段私の事を特にどう思っているでもなさそうな子までが離れていった。
(みんな、げんきだな……)
あれだけ歩いた後でもみんなははしゃいで遊び回っている。わたしもやや疲れてはいるけど、遊べないわけじゃない。遊べないわけじゃない。
そう、遊べないわけじゃないけど、遊んでもらえなかった。誰も気がつかなかったから。一人でいる私に、皆は誰も気がつかなかった。
それでもわたしは普段のままだった。別に皆を避けたいわけじゃない。そんなつもりはない。一緒にいられればその方が楽しい。でも皆は意識しないまま少しづつ、わたしの存在を感じなくなっていく。
少し哀しかった、少しさみしかったけど、わたしにはどうしようもなかった。
流行っている遊びのルールは少しは知っている、でもそれを特別に楽しいとは思えない。本の中にある世界に入り込み、その世界を頭の中で体験するほうがずっと楽しく思える。そしてその楽しさを判ってくれる子は周りにはほとんどいない。
浜辺に座り、波打ち際の仲間のほうに目線は行きながらも、頭の中はいつの間にか昨日読んだ本の世界が広がっていた。わたしはその世界に没頭していった。
(かおりちゃん、つまんない)
一瞬、深く傷つけられたその言葉にも、いつの間にか何も感じなくなっていた。
傷つきはしたし多分忘れることはないだろうが、もうそれ以上傷が深くなることはない。痛みはやがて治まる。傷口の跡は残るかもしれないが、痛みさえなくなれば後は気にしなければそれでいい。そう、それだけの問題。大したことは……、ない。
次の日曜、わたしは朝から浜辺に来ていた。着いた時には陽は高く昇っていて気温も結構あがっていた。それでもまだ人影はまばらだ。
海岸沿いのサイクリングロードから砂浜へと降り、あの時は行けなかった波打ち際まで歩く。波の音が静かに、深く、体に響いてくるのを感じる。その景色を観て少し前に読んだ小説の舞台が頭の中でオーバーラップする。
打ち寄せる波がギリギリまでくるところで足をとめ、しゃがみこんだ。石英の粒の混じる均一な砂がよせてはかえす波に洗われ、陽の光を浴びてきらきらと光る。
きらきらと光る……
きらきらと……
……
「……さん?」
「……え?」
「いや、だから……。話とか特にしなくても、そばにいるだけで楽しいって事あるよね。っていうか、そういう人っているよね」
「え、ええ」
「だから、俺にとって中里さんはそういう人なんだけど」
「私が?」
「あの、おだててる訳じゃないし、建て前を言ってるわけでもないんだけど……。俺の言うことじゃ信用してもらえない、かな」
「いるだけで、楽しいって事?」
「そう」
すぐ隣を歩いている彼は真面目な顔をして答える。妙に恥ずかしい。そして、可笑しい。
(つまんないって思わないの?)
その台詞は口から出なかった。その代わりに別の言葉が口からこぼれ出た。
「ありがとう……」
自分でも頬が紅潮するのが判る。思わず顔を伏せる。目線を合わせることができない。
ふと、最近読んでなかった恋愛小説の中に似たような台詞があったのを思い出した。彼がその小説を読んでいて、いや他の何でもいいんだけれども、そこから台詞を流用したんだろうかとか思った。
でも結局そんなことはどうでもいいのかもしれない。オリジナルな台詞だろうが、よその使いまわしだろうが、今はその台詞を私自身に対して使ってくれた事が大事なんだ。そう思うと、自分に対して失っていた自信がなぜかわいてくるのを感じた。
ただ、今日はこれからバスでデパートに寄って、学園祭の出し物である「喫茶店」の用具類の買い出しをしないといけない。バス停まではここからそんなに遠い距離ではない。うつむいてばかりいれば少しの話さえする事もなくバス停についてしまう。そしたら、そこで終わり。今日は彼と別れることになる。
思い切って顔を上げ、目線を彼に合わせた。彼はずっとこちらを見ていた。
「………」
口を少し開いたが肝心の話がでてこない。話し下手なところはすぐに直るようなものではない。
なんの話をすればいいか判らない。やっぱり私は……。
「学園祭の準備、はかどってる?」
彼が話を切り出してきた。
驚いたことにすぐに私の口から返事の言葉があふれ出た。思考の半分は言葉を産み出してたが、もう半分はそんな私自身を冷静に見つめ、ちょっと驚いていた。
(……ちゃん、つまんない)
(まだそう思う人はいるのよ。でも今は楽しいと言ってくれる人がいるの)
そういう人と一緒にいるということが、今はただ嬉しかった。