0時をまわって日付が変わり、新しい年が始まった。神社の境内は毎年のごとく大勢の人でにぎわっている。青葉台高校2年の波多野葵も家族とともに群集の中に混じって歩いていた。途中何度かいつもの顔ぶれと出会い、いつもの挨拶をする。いつもと一つ違うのは、今年は彼の姿が見えないという事だけだった。親友である七瀬かすみの幼なじみで、波多野にとっては中学からの唯一の異性の友人。
2学期の終業式の次の日、彼と妹の君子ちゃんは先に引っ越した両親の元へと旅立っていった。中学から互いに気がねなく話してきた奴がいないというのはどこか寂しかったが、物心がつく前から一緒だったという七瀬かすみにとってはもっとこたえているに違いない。
七瀬は、転校の件について一ヶ月前に親から聞かされていたらしい。住んでいるのが同じ団地なので、親同士も交流が会ったからだ。でもかすみはその事を誰にも一切話さなかった。
七瀬は彼の口から転校のことを直接聞きたかったのではないかと波多野は想像していた。しかし彼は最後までかすみには話さなかった。一番始めに伝えたのは違う人だったのだ。
見慣れた髪型の女の子が視界に入っていることに波多野は気づき、回想から現実に意識を戻した。後ろ姿にどことなく寂しさが漂うように見えるのは気のせいだろうか。落ちこんでいると思い込んでしまっているのでそう見えるだけなんだろうか。少しとまどったものの、波多野は両親に一言伝えると人ごみをかきわけ、その女の子に向かって走った。
「かすみ!」
「え……、ああ、葵〜!。あけまして、おめでとう。今年もよろしくね」
「こちらこそ、今年もよろしく!」
七瀬は一人のようだった。辺りには波多野も見知っている両親の姿が見えない。
「かすみ、一人なの?」
「うん、両親とはぐれちゃって……。そういや葵も、まぐろちゃん連れてこなかったの?」
「この人手じゃ連れてくる訳にはいかないからね。 数日たって人も空いたら一緒に来るつもりなんだ。」
まぐろ、とは魚ではなく、波多野家で飼っている犬の名前だ。人懐っこい犬で、波多野はよく海岸で散歩をさせている。ふざけたネーミングだが、波多野自身は結構気に入っていた。なにより寿司屋である家の番犬としては洒落のきいた名前とさえ思っているようだった。あいつはよくからかっていたが、とまた少し想い出が頭の中をよぎる。
「そうなんだ。 やっぱり可哀想だよね、こんな時に連れてきちゃ」
「……ん、うん、そうだよね。今は番犬の仕事をしてるよ。子供とかには吠えないんだけど、怪しい奴にはちゃんと吠えるからね」
「ふうん、えらいね」
「さてと、挨拶はこれくらいにして。今日はこれからどうするの?」
今日といわれても今の時間はもうすぐ深夜1時になろうかというところ。七瀬にしてみればお参りをしたらあとは自宅に帰って寝るくらいしかない。その事を言うと、波多野は家に来ないかと誘ってきた。
「親父たちはこの後境内で酒でも飲むんだろうしさ。あたしはお参りすませたらさっさと帰ろうと思ってたんだ。でも一人じゃつまんないしね」
「えー、そんなこと言っても……」
「兄貴や弟も友達のところに行くみたいだし、うちの方は気を使うことはないよ。いろいろ話もあるしね。ね?」
お参りがすんだ後、結局七瀬は半ば強引に波多野の部屋におじゃまさせられることになった。自宅に電話をするが家族はまだ帰っていない。七瀬は、今日は泊まっていくと留守電に吹込んでおいた。
「相変わらずさっぱりしてるよね、ここ」 部屋に入るなり七瀬が言った。
「それ、誉めてんのか?」
波多野が笑ってこたえる。自分の部屋が女の子らしい部屋じゃないってことは承知してたし、それはそれでいいと思ってたからだ。
部屋には古い電気ストーブしか暖房器具がなかったので、誰もいない居間からこたつを運んできた。ついでにみかんやお菓子等も運んでくる。
「はー、これでやっと暖まるよ。親父の奴、せめて電気カーペットくらい買えって言ってるのに、これで十分だって大昔の電気ストーブしか置いてくれないんだもんなあ」
波多野の大声のぐちにかすみは思わず笑みをもらした。本音か冗談か判らないが、いやみに聞こえない波多野の喋りはかすみの心を少しだけ明るくしてくれたような気がした。
「かすみさあ、境内で見た時、なんかうつ向いててちょっと寂しげだったな」
相変わらず波多野は親友に対してストレートに話しかける。
「ん、そう? 別になんでもないよ」
「一人で歩いてる時あんな隙だらけの態度とってたら、変な男共にナンパしてください、って宣伝してるようなもんだよ。もっと背筋伸ばして、ちゃんとした姿勢で歩かないと」
「うん、そうだね」
「もう一週間たつんだな。あいつが引っ越してから」
突然の波多野の言葉にかすみは少しうつむいた。
「あいつ、なにか連絡してきた? 電話かなにかで」
「ううん、まだ。荷物の片づけとかで、忙しいんだよ、きっと」
「電話の一本くらいよこしゃいいのになあ、まったく」
「んー、ほら、『返事のないのは良い便り』って言うじゃない。それに、まだ一週間しかたってないんだよ。もう少ししたらきっと連絡もくるよ」
「でもなあ……」
「それに、来年の3月には……、帰ってきてくれるし」
2学期の終業式のお別れパーティーで、最後に彼は皆にそう告げた。 遠くへ引っ越すが、高校を卒業したらまた戻ってくると。
両親とも、妹の君子とも離れて再びここへと戻ってくるのを彼に決心させたのは、ある女の子の為だった。
それがもし七瀬の為だったら、七瀬はどんなにか嬉しかっただろう。しかし現実は違っていた。
「帰ってくるっていっても……、かすみの為じゃないんだろ?」
「いいよ、そんなの。帰ってくるのは同じなんだし。また会えるんだし」
「でもおかしいよ。かすみはあいつと幼稚園の前から付き合っ、じゃなくて、知り合ってたんだろ? あいつの事、よく知ってるんだろ? 中里さんってあいつと知り合ってから一ヶ月しかたってないんだよ。あいつ、それまで同じクラスだったのに中里さんの事知らなかったんだよ。なのに、なのに……」
七瀬はずっとうつ向いていた。七瀬には波多野がこちらを見据えて喋っているのが雰囲気で感じ取っていた。親友を思う波多野の思いが熱のこもった口調となって七瀬にあびせられる。
「それは……、そういう事もあるよ。いいの、私の気持ちは今までと同じなんだし。彼もたぶん同じだと思うし」
「かすみ……」
「中里さんって人のことよく知らないんだけど、きっといい人なんでしょ。なら、いいじゃない」
「確かに、あの子は真面目で……。地味で全然目立たないしちょっと頑固なんだけど、責任感は強くて、学園祭の実行委員もしっかりやってたな。でもあたしは絶対かすみの方が合ってると思うんだけどなあ!」
「そう……、かな」
「あいつ、あたしのほうに近寄ってきて『中里さんを頼む』って言うんだよまったく! そりゃあたしは中里さんはいい人だと思ってるし、たまに話もするし。あたしはいいよ、いいけどさ……。あいつ、おかしいよな! ほんとに!」
「うん」
「だいたい転校の事だって、あいつ一言も言わなかったんだろ? あたしだって噂から聞いたんだよ。月曜だったか、詳しいことは中里さんが知ってるって友達が言ってたから尋ねてみたんだ。そしたら」
彼の転校の件を知った波多野は急いで七瀬のところに行き、その事を伝えた。その時の態度がおかしかったので問い詰めると、七瀬はすでにその事を知っていたらしい。黙っていた訳は言わなかったが、波多野にはだいたい想像がついた。
優しすぎるんだよ!
あせっていたせいか、つい大声で七瀬を怒鳴った。すぐに謝ったが、七瀬は表情を変えずにずっと黙りこくったままだった。
「……葵も、悲しいんでしょ?」
「え?」
「彼がいなくなって、寂しいんでしょ?」
「あ、ああ。言いたい放題言えるヤツがいなくなったからな」
「そうじゃなくって」
「え?」
「彼と喋っている時、楽しそうだった。なんだか、他の人といっしょの時よりとても楽しそうで。横で見てたけど、すごく面白かった。時々、嫉けちゃうくらい」
「かすみ……」
「いいのよ、もう」
かすみがにっこりと笑う。
「来年、また元どおりになるんだから」
「違うだろ、あいつは中里さんと」
「元どおりよ。 何も変わらないよ。あたしと、葵と、彼とは」
教室でお別れパーティーを開いた時、皆と挨拶をして少したった頃、彼は突然教室を飛びだした。殆どの人はなにがどうなったのか判らず呆然としていたが、主催者で彼の親友である木地本がその場をうまくまとめ、彼が帰ってくるまで少し待つことにした。そして彼が戻ってきた時、隣には目を真っ赤にはらしながらも笑顔をたたえている背の低い女の子、中里佳織がいた。中里は少し前まで泣いていたはずなのに、とても幸せそうな顔をしていた。とても、とても、幸せそうな顔だった。とても、とても、幸せそうな……
「やめ!」
突然波多野がこたつの天板を叩きながら立ち上がった。
「え?」
「やめやめやめ! だめだめだめだめだめ! 年があけたところだってのになんでこんな話しちまったんだろうな全く! ちょっと待っててね、いいもの持ってくるから!」
あっけにとられるかすみを尻目に、波多野は突然部屋を飛びだした。
しばらくすると、波多野はコップを2個と何か飲み物の入ったビンを2本持ってきた。1本は青っぽい色がついている。
「それ、なんなの?」
「これ? へっへ〜、いいもの! まあ飲んでみてよ」
そういうと波多野はやや透明の液体を2つのコップに注いだ。炭酸が入っているらしく、きめ細かい小さな泡と歯切れのいい音が広がる。そして七瀬の鼻にどこかで嗅いだことのある臭いがささった。
「やだ、葵っ! これ、お酒じゃないの?!」
「そうだよ。これはコアントロー・フィズってカクテルで、こっちの方は、確か百貨店のリキュール売り場のお姉さんのオリジナルって言ってたっけな? すごくすっきりしていい味だよ。もらったレシピ見ながら作ったんだ」
「そうじゃなくって!」
「大丈夫、味があわなかったら日本酒もあるから。今ね、口当たりのいい地酒が入ってるんだ! ワインみたいな感じで後味もよくって美味しいよ」
「じゃなくって!」
「あ、あたしはこんなの持ってないからね。リキュールとかは兄貴ので、日本酒は店に置いてあるやつ」
「そっか、お寿司屋さんだもんね、ってそうじゃなくって!」
「ん?」
「あたしたち、まだ17歳でしょ?! お酒って飲んじゃいけなんだよ」
「判ってるって。けどかすみもお菓子作ってるとき、ブランデーとかリキュールとか入れない?」
「あ、あれはお菓子用のリキュールで……」
「おんなじだよ。アルコールが入ってるんだし」
「それに、それを飲むわけじゃないよ。材料にちょっと入れたりするだけだよ」
「そっかあ? 洋菓子とかでアルコール度数が結構高いのもあるって聞いたよ?」
「とにかく、私はそういうのはちょっと……」
「まあ、今日は元日なんだし。うちの親、あたしの部屋にTV置いたりするのは大反対なくせに、酒とかはすごく寛大なんだもんなあ」
「葵……、あなたもしかして、いつも飲んでるの?」
「そんなことないって! 元日の時だけ! それも、去年が初めてだよ」
「ほんとかなあ……」
「ん、なんか言った?」
「え、ううん、なんにも」
と、いろいろ言いながらも結局二人はそのまま新年の夜を過ごした。
波多野の両親が帰宅したのは深夜2時過ぎ。もうすぐ家に着くというその時、家からバカヤローという大声が聞こえた。不思議に思ってやや早足になり、家にたどりついて玄関の戸を開けようとした時に再び、さっきよりもどちらかというと可愛い感じでバカヤローという声が中から聞こえてきた。
叱ろうとした父を制し、母が葵の部屋をのぞきに行く。少したって戻ってきた母はしょうがないという顔つきをしながら笑っていた。何の事かさっぱり判らない父は葵の部屋へ踏み込もうとしたが、母は襟首を掴んで引きずり戻した。
ゆっくりと目を開くと、窓から朝日が差し込んでいるのがぼんやりと見える。意識が戻った途端、激しい頭痛が波多野をおそった。顔を歪めながらゆっくりと立ち上がり、深呼吸をする。足元が少しフラついたが、頭痛はなんとか耐えられそうな気がした。
居間のほうから新春が云々と言っているタレントの軽薄な声が聞こえてくる。親がTVを見ているのだろうと波多野は思った。――新春。寒さが厳しさを増すのはこれからだ。
こたつの向こう側では七瀬が横になってまだ寝入っている。髪は乱れ、顔には涙の跡がくっきりとついていた。
「あけましておめでとう、かすみ。新しい年だな」
そっと七瀬に話しかける。その時七瀬の唇がほんの少し動いた。
「……クン。……」
「かすみ?」
呼んでも返事はない。完全に寝入っている様子なので先程のは寝言だったのだろうと波多野は思った。閉じた目にうっすらと涙が滲んできている。波多野は七瀬の寝顔をしばらくじっと見つめた。
「だから、優しすぎなんだって」
ぼそりと波多野がつぶやく。
彼のいない高校三年生の生活、戻ってきてからの後、たぶん七瀬の笑顔はそんなには変わらないだろうと波多野は思った。寂しそうにしてても、それでもいつもの笑顔が完全に消えてしまう事はないと思った。しかし……。
「なにか変わるといいね。 あたしも、かすみも」
明るくなった窓の向こうを見ながら、波多野はそうつぶやいた。