この駅のあるこの地に降り立つのは8ヶ月ぶりだった。
引越しでここを離れてから8ヶ月。それくらいの時間では辺りも以前と変わっているところは見当たらない。しかし駅のホームの上で聞こえてくる音、人の声、匂い、全てになにかひっかかるものを感じる。すっかり引越し先のほうに馴染んでしまったからだろうか。少しとまどいの気持ちを残しながら、おれは改札口を出て駅の前に出た。
真夏の日差しがきつく、目の前に陽炎がうっすら立っている。アスファルトとコンクリートに囲まれた駅前は容赦ない暑さだ。セミの声が相変わらずやかましい。時刻を見ると10時30分、あの人と会う約束の時間まではまだ30分ある。どこか冷房のきいているところで時間を潰そうかと思っていたその時、道の向こう側のバスターミナルで見覚えのある女性を見つけた。特徴のある三つ編みを見て思わず駆け出す。駆け寄っていく途中、向こうもこちらに気がついたらしく、少し驚きの表情が見えた。街路樹のセミの鳴き声が一段と大きくなる。
「中里さん?」
「ええ。お久しぶり。元気そうね」昔と同じ、中里佳織さんの素敵な笑顔がこぼれる。
「ほんとにお久しぶり……、ふう、こっちは暑いな! でも中里さんも元気そうだね」
「ありがとう。顔、真っ黒ね。運動か何かしてるの?」
「いいや、遊んでるだけ。自転車で遠出とかしてるからかな。ところで、これからどこか出かけるとこ?」
「図書館に本を返しに行くの。でも暑いでしょ。荷物も重いし、どこかで休もうと思ったんだけど、私、冷房って苦手だから。で、ここは風もあるしひさしが陰をつくってくれるからちょうどいいなって思って、すこし休んでたってわけ」
「なるほど」
中里さんと話をするようになったのは転校の1ヶ月前、昨年11月の終わりの事。それまで同級生だったにもかかわらず、元々地味で目立つほうではない中里さんの事はまったく気にとめたことがなかったが、ふとしたことで知り合いになることができた。その後学園祭の実行委員に無理に推薦され、誰も手伝ってくれないまま一人で仕事をこなしつづける中里さんを、あまりにも見かねて手伝いをしたりもした。学園祭が成功裏に終わった後、彼女は少し頬を赤く染めながらありがとうと言ってくれた。越したのはその1週間後の事だった。
「学校のほうはどう?」
「もう慣れたかな。最初はなかなか話しかけてくるヤツもいなかったんだけど、今は普通に話もできてるよ。友人ってのも数人できたし」
「妹さんはお元気?」
「ああ、君子は元気にしてるよ。むこうは家庭部がなかったんでがっかりしてたけど、バドミントン部に入っていろいろやってるみたいなんだ」
「あら、大変ね……。言葉とかは、慣れた?」
「発音がまだうまくできないんだけど、言葉はいくつか覚えたかな。こっちの言葉のままでも通じるけどね。でもさすがに早口で喋られると判らなくなる時もあるな」
「なるほどね」
ごく普通の会話。当たり障りのない会話が続く。中里さんとの間に少し距離感を感じた。気軽ながらも真面目な喋り口は前と変わらない。拒絶をしているわけでもないし、余所余所しさという雰囲気も特に感じてはいない。でもなにか居心地の悪い、ぎこちなさとでもいう感覚が少し残る。
「中里さん、前より喋るようになった?」
「そう? そうかな……。でも男の子で喋るのはあなたくらいね。他の子はやっぱり今でも苦手かな。女の子で、元気なお友達ができたお蔭で、少しは私もいろいろ話ができるようになったのよ」
一時期、中里さんの事が気になってた事があった。一人だけで頑張っているのを見かね、彼女がいない時を見はからいクラスの皆に手伝ってくれるよう話を持ちかけたことがある。その時は協力を得られることは出来ず、かえって彼女の邪魔をしてしまったかと悔やんでしまった。しかしその光景を偶然廊下で見ていた彼女は目の前に出てきて涙をこぼしながら礼を言った。悲しみではなく、嬉し涙だった。あれ以来、彼女の態度が若干変わったように思える。しかし、その後……。
「あなたは、今日はどうしたの?」
「え?」
「あんな遠くから来たんでしょ。この時間にいるってことは、昨日のうちにここに着いて宿泊してたか、それとも夜行列車かなにかで来てさっき着いたってところよね? そうだとしたら、それはとっても大事な用があるって事じゃないのかな?」
「あ……。うん、人にね、会いにきたんだ」
「そうなの。 もしかして、女性?」
「……そう」
「そうなんだ。いいわね、そういうのってなんだか素敵な感じがするわね」
「……」
誰に会うのか、名前を聞いてはくれなかった。関心が無いのか。別にどうでもいいことだからなのか。
って、おれは……、関心をもってほしかったのか?
今日11時にここに来たのは香坂さんに会うため。同じ高校出身で一つ年上の香坂麻衣子さんは4月からこの近くにある青葉大学教育学部にいる。5月のゴールデンウィークにはわざわざ会いに来てくれたため、夏休みにはこっちから会いに行く約束をしていた。
本当なら、今ごろ香坂さんの事で頭がいっぱいになっているはずだった。なっていないといけないと思った、が、なぜか今は目の前に居る中里さんの事で頭がいっぱいになっている。
「中里さんは、まだ彼氏とかいないんだ」
「ええ」
「……学園祭の時、楽しかったよね」
「そうね。本当、あなたがいなかったらどうなってたか判らなかったのよね。今でも感謝しているのよ。本当、嬉しかったわ」
「………、もし、あの時」
「あら? 香坂先輩?」
その声にあわてて振り返ると、道の向こうで香坂さんが困った顔をしながら辺りをゆっくりと見回している。相変わらずのおっとりした動作だが、そのためか周りから浮いてみえ、妙に目立っていた。
「あ! じゃ、じゃあ俺はこれで!」
「あら、それじゃ会う人って香坂さんだったのね。 うん。 あなたと久しぶりに会えてよかったわ。 それじゃあね」
「あ、中里さん!」
「え?」
「少し背が伸びたでしょ? でも可愛さは変わってないよ」
「はいはい、判ったから早くいかないと、叱られるわよ」
「そ、そうだね……。あ、あと一つ! 来年ここに戻ってくるから! じゃ!」
急いで香坂さんの元へ走る。時間はまだ10時45分。かなり早めに来てくれたらしい。こちらに気がつくと、すぐに今までと変わらない微笑みを見せてくれた。
挨拶を交わした後、振り返って中里さんの方に手を振った。香坂さんも笑みを浮かべて中里さんにおじぎをする。道の向こうの中里さんも礼儀正しく返礼をした。
「香坂さん、すいませんでした。暑い中待たせてしまって」
「いいのよ。そんなに待ってたわけじゃないし、私が早くきただけなんだから。もう少し、遅くきたほうが、よかった?」
「いえ、それは」
「それはそうと、さっきの人、誰だったかしら?」
「さっきの女の子ですか? 香坂さん、誰か判ってたからおじぎをしたんじゃなかったんですか?」
「あなたの知っている人みたいだったから、挨拶をしただけなのよ。でもね、どこかで見覚えがあるのよね」
「高校で学園祭の準備の時、家庭部の協力でケーキの作り方を教わっていた人ですよ。中里佳織さんって言うんですけど、香坂さん部長だったから話したこともあると思います。うちの君子も手伝ってたみたいなんですけど」
「中里さん……。ああ、そうそう、覚えてるわ。よくメモをとってた人ね。すごく真面目で、一所懸命で、礼儀正しい人だったわ。クルミのケーキや、ブルーベリータルトとかは、とても美味しく作れるようになったのよ」
「ええ、あのケーキは美味しかったですね」
「それで、その人と会ってたって事は……、あ、お付き合いしてるの?」
「……えええっ! そんなことあるわけがないじゃないですか! 俺は、そんな」
「あ、そうよね、私ったら、なにを言ってるのかしら」
「じゃ、じゃあ、どこか茶店にでも入りますか」
「判ったわ、昔、お付き合いしてたんじゃないの?」
「香坂さん!」
「ほら、顔が赤くなってる♪ いいのよ、昔は昔、今は今。そうでしょう?」
「……行きましょう」
彼と香坂先輩とは話をしながらどこかへ行ってしまった。背の高さは香坂先輩の方がやや低く、二人並んだ姿はバランスがいいように見える。けっこうお似合いのカップルという感じだ。
「ふう」
ため息が漏れる。
学園祭の準備、手伝ってくれた時は嬉しかった。彼の目の前で嬉し涙をこぼした時は恥ずかしいとともに幸せのようなものさえ感じた。でもその時の感情はそれまで。 学園祭後の一週間は特に話をする機会もなく、その次の一週間でも先生から彼の転校を知らされた時に落ちこみはしたものの、それ以上の感情はわき上がってはこなかった。
あの時、もしかしたら初恋というものを感じてたのかもしれない、後になってそう思う。 高校2年生になっても男子に対して特に感情を持たなかった私が、あの時だけは違っていた。 あの状態が進行してたらどうなっていただろう? 進行が止まったのはついあの人を避けてしまう事が多くなったからか。 それは照れ隠し、恥ずかしさといった感情からきた行動だったのか。 とはいえ、今になって冷静に自分を見つめなおしてみても今さらどうしようもないという気がする。
それに、結局それでよかったのかもしれないという思いのほうが今では大きい。 私は、普段は一人のほうがいいのかもしれない、向いているのかもしれない。 友人ならば波多野さんや森下さん、丘野さんといった楽しい人たちがいる。 高校を卒業してからはたまにしか会えないが、それでも以前に比べれば十分にぎやかだ。 それで十分充たされているような気がしている。
さっき声を聞いた時は懐かしさがあふれ出してきた。でも愛しさや恋といった感情は特にわいてこない。それらの感情は、想い出とともにもう昔の話になってしまっている。香坂さんと一緒の姿を見ても特にどうという事はない。なにか感情が変化するだろうかと思ったが、特にそのようなこともなかった。
二人を変えたのは、時間だろうか。感情を保つ努力をしなかったうち、気がつかないうちに時間が全てを流しさってしまったんだろうか。それとも時間のせいにしているだけなんだろうか。
「来年ここに戻ってくるのか」
気軽に話せる男友達がいるっていうのも悪くはない。来年からはまた少し周りがにぎやかになるだろう。もう高校の時のような感情は二度と戻ってくることはないだろうが、また友人としてお付き合いできたら。
額から汗が流れている。いつの間にか風が止んでいたようだ。それに気がつくと、途端に蒸し暑さを全身で感じてきた。
やれやれといった調子で本がぎっしり詰まったかばんを持ち、駅へと急ぐ。
道沿いの街路樹では、いつの間にか鳴きやんでいたセミが、再び大きな声で大合唱を始めていた。