「あれっ? 香坂先輩?」
夏休みの早朝、カルビという名の愛犬と散歩をしていた君子が駅前を通りかかった時、見覚えのある横顔が視界に入った。声に気づいたのか、相手がゆっくり振り向く。それはまぎれもなく香坂麻衣子だった。昨年まで住んでいた町の高校のクラブの部長で2年上の先輩であり、君子が非常に世話になった方だった。香坂は君子の方を見たものの、誰か判らないのかキョトンとした表情をしている。
「先輩!」
君子はカルビを連れて走り出す。香坂の顔がゆっくりと笑顔に変わっていく。
「君子ちゃん」
「はぁはぁ、先輩! お久しぶりです!」
「本当、久しぶりね。元気そうで、よかったわ」
「はい、先輩もお元気そうで」
香坂は、今は青葉大学教育学部に在籍している。小学校の先生になる事を目指して勉強中らしい。
高校3年生の冬の時点でも、まだどういう道に進むべきか香坂は迷っていた。その道を決定的にしたのはどうやら君子の兄の一言にあったらしい。どういう話があったのかは君子は知らないが、香坂はその一言をとても感謝していた。あの町での最後の土曜日、家庭科室で香坂と話をした時にそのことを初めて君子は知ったが、その時の紅茶を交えながら会話をしたことは君子にとって大事な想い出の一つになっている。
「もしかして、今日は兄に用事ですか?」
「え、ええ。そうなの」
尋ねるまでもない質問。答えはわかり切っている。青葉台からここまでは電車で軽く半日以上はかかってしまう。午前中に着こうとすると、青葉台を夜中に出発しなくてはならない。そこまでしてここにくる理由はというと、君子の兄のこと以外考えられない。
青葉台高校では君子が1年生、兄が2年生、香坂が3年生だった。香坂と知り合いになってからの時間は君子が入学時からの9ヶ月なのに対して兄はわずか1ヶ月しかない。しかしそのたった1ヶ月で、香坂が君子の兄に寄せる想いは非常に深いものになっていた。またそれは君子の兄にとっても同じことだった。
「そうですかー。お兄ちゃん、なんにも言わなかったな……。あ、遠い所をどうもお疲れ様でした」
「ありがとう、君子ちゃん。……君子ちゃん、なんて言うのも久しぶりね。あまり変わっていないようで、少し安心したわ」
「先輩こそお元気そうで。そういえば、兄はまだ起きてませんでした。今から帰って起こしてきますね!」
「え? あ、いいのよ、君子ちゃん」
「もしかして先輩、やっぱり時間が早すぎますか……」
すでに日はかなり昇っているとはいうものの、歩いている人はまだ少ない。君子は腕の時計をちらりと見て時間を確認した。まだ朝の6時半を少し回ったくらいだ。
「そうなのよ。ちょっとね、早かったの」
「どうしたんですかぁ一体?」
「それがね……」
待ち合わせは9時の予定だったらしい。夜行列車を乗り継いでくると、ちょうどその時間にこの駅に到着する便があるためだ。それより前は早朝、後は夕方しかない。しかしどこかなにかがおかしかった。
香坂は小さな時刻表の本を広げながら君子に見せた。
「ここの乗り換えで、1時間ほど待ち合わせの時間があるはずなの。それがね、すぐに電車がきちゃったのよ」
「おかしいですよねー」
「そうよねー。おかしいんだけどねー」
「で、この電車に乗るはずが、こっちの電車に乗れてしまったんですか?」
「そうなのよ。早く着くのはいいんだけど、そしたら今度は、駅名がどこかおかしいのよね」
「駅名が、ですか?」
「そうなのよ。この路線なら、最初に止まる駅はここのはずでしょ? そうしたらね、最初の駅は、聞いたことのない駅名だったのよ」
「ほえー、なんだかそれって恐いですよねー」
「そうよねぇ。困っちゃったのよねぇー」
「でもよくここに着きましたね」
「そうなのよ。駅名は合ってるんだけど、本当にここでいいのかしらって、しばらく考えてたの」
「は、はぁ……」
君子は時刻表の本の最初のほうに載ってある路線図を見てみた。香坂がどのようなコースをたどってきたかを知ろうとしたためだ。しかし、どのコースを辿ってもどこかで矛盾がおきる。3つほどコースのパターンを考えてみたが、結局今は考えないことに決めた。
「だから、君子ちゃんを見た時は、本当にホッとしたのよ」
「よかったですねー」
君子の愛犬のカルビは不思議そうに二人を見つめている。
「そうだ先輩、朝食はもう召し上がったんですか?」
「え……、あ、ううん。途中の駅で駅弁を買う予定だったんだけど、どこを走っているのかわからなくなったから、結局なにも食べられなかったの」
「もしよかったら、うちで朝食とりませんか?」
「え? 君子ちゃんのお宅で?」
「はい。電話で母に伝えます」
「で、でも……」
「あ、兄との事は内緒にしておきます。私の先輩だって事しか言いませんから、大丈夫ですよ」
「そう? ……う〜ん、じゃあ、申し訳ないけれど、お言葉に甘えてみようかしら」
「それじゃ、電話してきますね。カルビ、ここでちょっと待っててね」
近くの柵に持ち手を結わえ、君子は電話ボックスへと向かった。飼い主の後ろ姿をカルビがしっぽをふって見送る。
「あなた、カルビっていうの? 面白い名前ね」
香坂がしゃがみこんでカルビに話しかけた。人懐っこくて活発な性格のカルビはしっぽをふりながら喜んで一言「わん」と答えた。
「先輩、大丈夫です。ちょうど父が食事を終えたところなんで、私たちが家につくころにはたぶん出社してる頃になると思うんです。そしたら母と……、先輩?」
カルビは香坂に頭を撫でられ、しきりにしっぽを振っている。
「よく人に慣れるのね。カルビちゃん、だったかしら?」
「はい。私は可愛い名前だなって思うんですけど、兄は今も反対してるみたいなんですよぉ」
「そうなの? 私は、可愛らしくて、元気そうな名前だな、って思うんだけどな」
「そうですよねー。また後で兄に言ってやってください」
「そうね」
ふと、香坂の目が遠くを見ているような雰囲気になった。
「話す事……、いっぱいあるものね」
「先輩?」
「え? ええ、ううん、なんでもないのよ。じゃあ、行きましょうか」
君子が香坂と一緒に歩くのは久しぶりだった。引っ越す前は部活の帰りに途中まで一緒だったことが何度かある。
そういえば町の雰囲気もどことなく青葉台に似ている。木や草の緑が目立ち、3階建以上の建物があまり見当たらない。洗練されているわけでもないが田舎という感じでもない。海が近くにあった青葉台と違い、潮の香りがしないのが最初のころ少し残念に思うときもあったが、それも今ではまったく気にならない。そう君子は感じていた。
「この通りって、なんだか青葉台に似てますよね」
君子が話しかける。しかしなぜか香坂は少し心配そうな顔をしている。
「ど、どうしたんですか、先輩?」
「駅から……、どう来たんだったかしら……」
角を一回曲がっただけだったが、すでに香坂は道がわからなくなっていたらしい。確かにまわりには目印になるような山や目立つ建物などが見当たらないので、最初に来たときには方角が判らず、迷うこともある。
「せ、先輩、帰りの駅までは私がちゃんと送りますから、そんなこと気にしなくても大丈夫ですよぉ。あ、送るのは兄にお願いしようかな……」
「あ、そ、そうね、帰りのことなんか、今は気にしないでもいいのよね」
また顔つきがいつもの笑みに変わる。
確かに香坂先輩は非常にいい人だ。兄には勿体ないくらいいい人だ。しかし、いろいろなところで多少、いやかなり人並み外れたところがある。歩きながらぼんやりと君子は考えていた。
兄は本当に大丈夫なんだろうか。以前から君子が時折心配していたことだ。そんなことは当人たちにまかせておけばいい、他の人がとやかく心配するようなことではない。しかし、やはり君子は気になった。
少し深く考えようとしたとき、香坂が喋りだした。
「もう、半年以上たつのね。君子ちゃんと、お兄さんが引っ越してから」
「そう、ですね。月日がたつのって、早いですよねー。青葉台でのことも、なんだかすっかり昔の話になってしまったような気がします」
「そういうもの?」
「そうですね、こちらの生活にもすっかり慣れましたし、友達もできましたし。……でも忘れてはいないですよ、青葉台高校での事は。家庭部での事も」
「そう、よかったわ。私も、君子ちゃんの事とか、お兄さんの事とか、よく思い出してるのよ」
「兄を、『思い出している』、ですか?」
「……え?」
「時々兄が遠距離電話してるの、知ってるんですよぉ」
君子は夜中に電話をかけている兄の姿を時折見ていた。電話がある玄関の廊下を一瞬通り過ぎるだけなので、誰と何の話をしているのか等はわからない。また詮索するつもりも君子にはない。しかし、一瞬耳に入る兄の声の調子から、誰と電話しているのかなどは簡単に察しがつく。
「君子ちゃん、知ってたの?」
「だって、部活のみんなも知ってましたよ。放課後に時々兄が部室に来ることがありましたよね。あの時の先輩、とっても嬉しそうでしたから」
「あら、まぁ」
「みんなで噂してたんですけど、先輩気づかなかったんですか?」
「あら……。そんなこと、全然気づかなかったわ。もう、みんなで、そんなこと言ってたのね」
「でもよかったですね、先輩」
「え?」
なにがよかったのか、君子は言わない。香坂は少し迷ったが、だんだんと納得した顔つきになっていく。
「そうね。うん、よかったわ。今は一番、いい時なのかもしれないわね」
「もっともっと、よくなっていきそうですね」
「そうね。そうなるといいわね」
香坂はたいていにこやかな表情をしている。時々困った表情をすることもあるが、それも本当に困っているのか困っていないのかよくわからない感じだ。まわりをなごやかにし、幸せな雰囲気にすることができるその素晴らしい表情は今も変わらない。それどころか今までに君子が見たどの時よりも遙に幸せな表情をしている。そのためか、前よりもとても綺麗に見える。それが君子にはとても嬉しかった。
来年、君子の兄は以前住んでいた青葉台高校のある町に戻る。向こうの大学を受験する予定だが、たとえ落ちたにしても向こうに住む決心を固めている。理由は一つしかない。
小さな頃から慕ってきた兄が遠くへ行ってしまうのは君子にとってみれば寂しい事ではあった。が、兄が幸せになるならそれが一番なのだろうとも思っていた。それに、君子にとってみればまるで姉のような存在だった香坂も幸せになるのなら、それ以上の素晴らしいことがあるだろうか。
――姉のような。今までなぜか思いもしなかった事に君子は気がついた。
「せ、先輩、あの」
「なあに、君子ちゃん」
「あの……」言葉がでない。
「ん?」
「あ、いや、いいです。ええ、行きましょうっ!」
「君子ちゃん、顔が赤いけど、熱でもあるの?」
「いいえっ、熱なんてないですないです。もう元気です、はい」
「それならいいんだけど。でもこうやって、一緒に歩くのって、いいわねぇ」
「そうですねー」
話が違う方向に行ったことを君子は感謝した。
「こうやって歩いていると……、どう思われるのかしらねー」
「え? なにがですか、先輩?」
話の方向にやや君子はとまどいだした。
「まわりの人からはね、姉妹のように見えるのかな、って」
「ま、まあ、あんまり顔が似ていないから、それはないと思うんですけど」
「そう? でも、どのみち、あと何年かすれば、君子ちゃんは妹になってしまうのよね」
その言葉に君子はとまどった。妹になる? 先輩は一体なんの話をしているのか?
私が香坂家の養子に……、そんなことがあるわけがない。香坂先輩がうちの養子に……、そんなこともあるわけがない。うちの親と香坂先輩の親とが結婚……、そんなこと絶対にあるわけがないというかそういう発想をする事自体がそもそもおかしい。君子はしばらく考え込んだ。
「あ……」
一番単純な理由を思いついた。それはつい先程君子が想像した光景。まさか香坂の口から今その言葉を聞くとは。
君子はすっかり忘れてしまっていた。この先輩はこういう先輩なのだ。この先輩は、とんでもないことをいきなり何の屈託もなく平然と口に出すことができる先輩なのだ。しかもたちの悪いことに、本人は何一つ悪気が無いのだ。無神経にしても限度というものがある。
君子は顔を真っ赤にしながら立ち止まっていた。唖然とした表情のまま、顔が熱くほてってくるのを感じる。その言葉の意味に照れたというより、そういうことを突然平気で喋りだす香坂をとても恥ずかしく思えたせいもあった。
「あ、あの、香坂先輩……」
「なあに?」
「私の……。義理のお姉さんになるんですか……」
「え?」
自分で言っておきながらその言葉の意味をよく理解していなかった香坂は、ゆっくりと真剣な顔つきになり、左手で右ひじを抱えて右手人差し指をほおにあてるという、いつもの考えるしぐさをとり、考えはじめた。
君子が心の中でゆっくりと10数えおわったとき、ようやく香坂の顔が赤らみはじめた。
「ま、まぁ、私ったら……」
「先輩……」
「君子ちゃん、私は、その、そういう意味じゃなくって、その……」
「あの、あと少しで家に着きますから、行きましょうか」
「そ、そうね。行きましょう」
再び2人と1匹は歩きだした。カルビは歩きながら時々2人の顔を見比べている。両方とも真っ赤な顔になっている。
「あ、あの、先輩?」
「な、なあに、君子ちゃん」
「あの、き、今日も、朝から暑いですねー」
「そうねー、暑いわよねー」
「……」
「……」
だめだ、言葉が続かない。君子は話そうと努力することをしばらく止めることにした。
隣の顔をそっと見上げる。香坂麻衣子は相変わらず顔を赤らめてうつむいたまま歩いている。表情はというと、目元は相変わらずだが口元には恥ずかしさを含んだ笑みが現れている。
このまま兄に、二人に、まかせよう。ふとそんな想いが君子の心に浮かぶ。
香坂が言ったとおり、君子が想像したとおり、義理の姉妹になるかどうかなんてことは、少なくとも君子にはどうでもいい話だ。そんなのにならなくても、君子と香坂との関係はこれからも続くだろう。
君子は思った。それ以上は今は何も期待しない。何も願わない。この先はどうなるか判らないから。
(私と兄に転校の話がきたのも突然だった。本当に先のことは判らない。これからも見守るだけ。見ているだけというのがいいのかもしれない。たぶん兄と香坂先輩なら……。自然のままに、なるようになるという気がする)
ただそれとは別に、その幸せを少しわけてほしいな、という気持ちも君子の中にほんの少しだけあった。転校で破れてしまった君子の想いが、いつの日か別の形ででも叶うようにと。
「どうしたの? 君子ちゃん」
君子が我に返ると、香坂麻衣子が心配そうに顔をのぞき込んでいた。知らない間に自分の世界に入ってしまっていたらしい。
「あ、なんでもないですなんでもないです。ちょっと考え事をしてて……。あっ、ごめんなさい先輩! 一つ後ろの角を左でした!」
あわてて君子は道を戻った。カルビは素早く反応し、飼い主の足元に寄り添う。
「あら、少し戻るのね。はいはい。でも、こうやって戻ると、また道が判らなくなるわねー」
さっき心配しないようにと言われたはずだが香坂はすっかり忘れてしまっている。
――兄の面倒を見るのも大変だったが、姉の面倒を見るのも大変になるかもしれない―― 先のことは判らないと思ったばかりなのに、君子の頭の中ではすでに数年後の風景がふんわりと浮かんでいた。
「こういうのも、いいのかもね」
開き直るのもまた善し。君子の口元に笑みがこぼれた。