「あれっ? 弥生?」
夏休みの早朝、一人で散歩していたみさきが駅前を通りかかった時、見覚えのある横顔が視界に入った。大声に気づいたのか、相手が驚くように振り向く。南弥生だ、間違いない、昨年まで住んでいた町の高校の親友だとみさきは確信した。相手はみさきを見たもののまだ誰か判らないのか、それとも事態が掴めていないのか、キョトンとした表情をしている。
「や、よ、い!」
みさきが走り出す。南弥生の顔が笑顔に変わっていく。
「みさきちゃん!」
「はぁはぁ、弥生! 久しぶりじゃない!」
「うん、久しぶりね。みさきちゃんも元気そうね」
「手紙に書いてたとおりでしょ。弥生も元気そうじゃない。相変わらず背は変わってないみたいだけど」
「もう、みさきちゃんったら」
みさきと同じクラスだった南弥生は、今は青空高校の2年生だった。テニス部に在籍し、自分自身のトレーニングとともに後輩の指導にもあたっている。
中学のときに手芸部だった弥生をテニスに誘いこんだのはみさきだった。みさきにしてみれば、突然引っ越し&転校してしまったことで、弥生をテニス部に残していってしまったような思いがしていた。しかし弥生自身はテニスを楽しんでいる。高校で家庭部に入らなかったことをもう何も思ってはいない。
この前来たみさき宛の手紙の中にそういう一文があり、みさきはほっとしていたところだった。
「来るっていうのは手紙で知ってたけど……、やっぱり用事はお兄ちゃんなんでしょ?」
「う、うん」
尋ねるまでもない質問、答えはわかり切っていた。弥生のいる町 ――それはみさき達が昨年まで住んでいた町でもある―― からこの町までは鉄道で軽く半日以上はかかってしまう。午前中に着こうとすると、向こうを夜中に出発しなくてはならない。そこまでして来る理由はというと、みさきの兄のこと以外には考えられない。
青空高校ではみさきと弥生が1年生、みさきの兄が2年生だった。弥生とみさきの兄が知り合いになってからわずか1ヶ月しかない。しかしそのたった1ヶ月で、二人の想いは非常に深いものになっていた。
南弥生の男性の好みは「カッコイイ」ことだったはず。なのによりによってあの兄に……。その辺のことがみさきにとってみれば未だに最大の謎であった。
「今日来るってのは判ってたけど、まさか朝の6時半とはねー。おかしいなあ、お兄ちゃん起きてる様子はなかったんだけど」
「う、うん、本当はね、9時に着く予定だったの。それが、ちょっとおかしくなっちゃって」
「おかしいって何? 電車がおかしいって言うより、弥生がおかしいってこと?」
「う、うん。そんなところなんだけど……」
待ち合わせは確かに9時の予定だった。夜行列車を乗り継いでくると、ちょうどその時間にこの駅に到着する便があるためだ。それより前は早朝、後は夕方しかない。しかしどこかなにかがおかしかった。
南弥生は小さなサイズの時刻表の本を広げながらみさきに見せた。
「ここの乗り換えで、1時間ほど待ち合わせの時間があるはずなの。それがね、すぐに電車がきちゃったのよ」
「どこどこ? ……そんな時間に来る電車はないはずよね」
「そうでしょう? でも、行き先がこっちの方だったから、これに乗れば早く着くかなって思って、乗ってみたの」
「ふーん。ちょっと待ってよ……、今は夏休みの時期よね。ということは」
みさきは時刻表の前のページを調べはじめた。季節によって増発される電車の時刻表が載っているページだ。
「ここに増発分があるわね。これに乗ったんじゃないの?」
「……そういうのがあったのね」
「ま、とりあえず早く着いたからよかったんじゃない?」
「それがね、思ってたのと違う路線を通ったから、駅弁を売っている駅が判らなくて……」
「もしかして、なにも食べてないの?」
「うん」
「うーん。……ね、食べてないだけじゃなくて、もしかしたら寝てもいないんじゃないの?」
「う、うん」
予定がすっかり違ってしまったので、いつどこの駅を通るのかが全く判らず、南弥生は夕食をとりそこねてしまっていた。さらに緊張感と空腹感のせいで、一睡も出来ずにいた。
たしかに弥生の目は半分寝ている。口元は笑ってはいるが、全体的に疲れたようにみさきには見えた。
「まあ、女の子の一人旅で電車の中で寝るってのはちょっとね、危険かなって思うけど……。大丈夫?」
「ん、ちょっと眠いかも。みさきちゃんを見て安心したらなんか眠くなってきちゃった……」
「ま、よく一人でここまで来たわ。それじゃさ、うちで朝食とらない?」
「え? みさきちゃんの家で?」
「今ね、お父さんが出張で今週一杯帰ってこないのよ。で、お母さんもお兄ちゃんもまだ寝てるの。私はテニス部の休みもらったから今日はまだ寝ててもよかったんだけど、ついクセでいつもの時間に起きちゃったのよ」
「ふうん」
「だから今帰っても誰も起きて来ないから大丈夫よ。軽くなにか食べて、私の部屋でちょっと寝てれば? 9時ごろ起こしてあげるから」
「え、で、でも」
「お兄ちゃん、びっくりするよ。弥生を迎えにいこうと思ってたら、いきなり家の中から出てきたら……。ね、驚かしてやろうよ!」
「そ、それは先輩に迷惑かも」
「大丈夫よ。そんなことくらいで何かなる仲じゃないんでしょ。どのみち時間までは暇なんだし、来なさいって」
「そ、そうね、じゃあお邪魔するね」
歩きだす南弥生の顔に元気が戻ってきた。ほおが少し赤く染まる。
みさきはふと思った。弥生はお兄ちゃんのことを思い出しているんだろうか。これから行く私の部屋の隣ではお兄ちゃんが寝ている。そういうのを想像して照れているんだろうか。
みさきは一緒に歩きながら弥生を観察してみたが、少し変わったようなように思えた。髪型は昔と変わらないが、服が少し違う。以前なら可愛い系の服をよく着ていたのが、今着ている服はやや大人びている感じがする。それに軽く、薄く口紅が入っている。
みさきが転校する1週間ほど前、南弥生が喜んでみさきに話してくれたことがあった。みさきの兄が口紅をプレゼントしてくれたというのだ。下校時に一緒になった際、手渡されたという。その口紅はみさきが兄にアドバイスしたものだった。おそらくはその時の口紅をつけているのだろう。
幸せよねー……。南弥生の様子を見ながら、みさきはつくづくそう思う。
「どうしたの、みさきちゃん?」
みさきはつい口走ってしまったらしい。
「え? いや、なんでもないわよ。……なんていうかね、弥生は幸せよねー、って思ったの」
「そ、そう?」
「あたしなんか結局、なんにもなかったしね」
少し無言の時間が流れる。
「ねえ、みさきちゃ……」
「弥生……」
二人が同時に口を開く。そして同時に口を閉じた。
いつもならこういう場合、みさきが喋りだす。どういう場合だろうが、とにかくみさきが勢いで喋ってしまっていた。しかし今は違っている。なぜかみさきは弥生に先に喋るよう、目で催促している。
なにを話そうとしたんだろう? 弥生にはよく判らない。
「あ、あの、今のテニス部なんだけど、結構人も増えたよ」
「そう……」
「ほら、柳沢先輩、今の3年生が引退したらたぶんテニス部の部長になるだろうなっていう噂があるの」
「柳沢先輩……」
みさきが、とある光景を思い出す。校舎裏で柳沢先輩に告白したあの時。引っ越しが近づき、思い残すことがないようにと思って告白したあの時。袖にされるのが判っていて、それが当然だというのが判っているから別に傷つくことはないと自分に言い聞かせて告白したあの時。
「柳沢先輩、今も女子にすごい人気よ。でも相変わらず断ってばかりだって」
「ふうん……」
「別の話にしたほうがいい?」
「ん、いいよ。柳沢先輩かあ。昔っからよくもててたよね」
「そうよね。でも最近3年の広瀬って人と付き合ってるとかって噂もあるみたいだって」
みさきが立ち止まった。
3年の広瀬 ――広瀬のぞみ―― みさきの隣に住んでいた人で、みさきの兄と同い年。そして幼なじみ。
引っ越しの少し前、みさきの両親の帰りが遅くなったとき、夕飯を作りにきてくれた事があった。料理はすべて兄の好みのものばかり。
あの頃ののぞみお姉ちゃんは、お兄ちゃんのことをどう想っていたんだろう……、みさきは少し想像しようとした。しかし今考えてみてももう遅い。
広瀬が引っ越しのことを知ったのは、南弥生らと同じ引っ越し前日の事。次の日、引っ越しのトラックが立ち去り、家族全員で広瀬の家に挨拶にいったとき、広瀬の目がうっすらと潤んでいるのにみさきは気がついていた。
今までそこにいることが普通だった人がいなくなったとき、その人の大切さに初めて気がつく。広瀬が気がついたのは少し遅かった。それに、その時みさきの兄の気持ちはすでに別の人の方を向いていた。今みさきと一緒に歩いている、みさきの親友の方に。
「どうしたの?」
「ううん、なんでもない。で、その広瀬……、さんと、柳沢先輩が付き合っているのは……、確かなの?」
「うーん、確かかどうかは判らないみたい。前のみさきちゃんの家の近くに児童公園があったでしょ? あそこでなにか話しているのを友達が見たんだって」
「それだけ?」
「それだけ」
「なぁんだ」
「え?」
「その広瀬さんって、間違いなく家の隣に住んでた広瀬のぞみさんだと思うの。私もお兄ちゃんも小さい頃からよく知ってる人なのよ。柳沢先輩もお兄ちゃんの親友だったから、たぶんそのことでなにか話してたんじゃないのかな」
「そうだったんだ。先輩と、柳沢先輩って、親友だったんだ」
柳沢に誰か好きな人がいるという事はみさきにも気がついていた。でなければ、あれだけの女の子からの告白をふるはずがない。まさかその好きな人というのは……。みさきの中で二つのもしもが一緒になった。
(もしかしたら、本当にもしかしたら、小さい頃から知っていたというだけでなく、もしかしたら本当の意味で「お姉ちゃん」と呼ぶことになったかもしれないのぞみお姉ちゃん)
明るく、料理が上手で、面倒見がよく、一度思ったことは最後までやり通す努力型の人。
あの人がみさきの姉になってくれればどんなに嬉しかったことだろう。頼りない兄のことをすべて任せてしまえる唯一の人だったかもしれない。その人と、柳沢先輩が? みさきの心が揺れた。
お兄ちゃんが越してしまったことでのぞみお姉ちゃんは落ちこんでいたに違いない。たとえその気持ちを外に出すことがなかったにしても。そしてそれに気がつくのは、ふだんからのぞみお姉ちゃんのことを気にかけている人だけ。もし柳沢先輩がのぞみお姉ちゃんの支えになれるんだったら……、それはそれで最高の組み合わせなのかもしれない。と、みさきはそう思うことにした。
今はのぞみお姉ちゃんも傷ついているだろう。だからできるだけそっとしておいてあげたい。付き合っているという相手がもし本当に柳沢先輩だったら、のぞみお姉ちゃんは一躍校内の有名人になってしまう。そんな立場にたたされてのぞみお姉ちゃんは耐えられるだろうか。できれば傷が癒えるまでそっとしておいてあげたい。それがみさきの出した結論だった。
再びみさきは歩きはじめた。弥生もあわててついてくる。
「広瀬さんと柳沢先輩って普通の友達じゃないかなぁ。別に付き合ってるって事じゃないと思うよ」
「ふーん。じゃあ公園で話してたって件は」
「その公園って、うちのお兄ちゃんが小さい頃のぞみ……、広瀬さんと一緒に遊んでいたところなんだ。だからそこで柳沢先輩となにか思い出話でもしてたんじゃないのかな」
「そうなんだ……」
今度は南弥生の顔が少し暗くなった。
「どうしたの? 弥生」
「先輩って、幼なじみの人がいたんだ……」
「そ、そうだけど……。なによ、別に付き合ってたわけでもなし、今さら何を気にすることがあるのよ。弥生とうちのお兄ちゃんの仲ってそんなもんだったの?」
「みさきちゃん……」
「それにね、いいかげんうちのお兄ちゃんのこと、『先輩』って呼ぶのは止めにしたら? お兄ちゃんも名前で呼んでほしそうだよ」
「でも、なんだかそれで慣れてしまってるし……。それに、先輩はまだ私のこと『ちゃん』付けで呼んでいるの。もう高校2年なんだから、止めてほしいなって思ってるんだけど」
「なら弥生のほうから呼び方変えちゃえば? そしたら弥生のことを少し大人っぽく感じるんじゃないのかな。そしたらお兄ちゃんも弥生のこと、呼び捨てで呼んでくれるかもしれないよ?」
「そ、そうかな……」
南弥生が幸せそうな笑顔を返す。
みさきは、弥生と兄が互いに名前を呼んでいる光景を思い浮かべた。考えただけでぞっとする。
みさきの兄はどことなく頼りない。弥生も頑張りやではあるが、頼りがいがあるかといわれれば完全に否だ。
もしかしたら私は一生涯、二人の面倒をみることになるんだろうか。ずっと気にしながら生きることになるんだろうか。そんな言い知れない不安がみさきの心に沸き起こる。
そんなことがあるはずはないのだか、気丈なみさきとしてはそういう風に考えてしまうクセが付いていた。おかげで不安はどんどん広がっていく。
まるで私は姑みたい。……姑? そう思った瞬間、今まで思いもしなかったことがみさきの頭に浮かぶ。
もしも、もしも、兄と弥生がそうなってしまった場合、私の立場はどうなるんだろう。
兄は兄。これは変わらない。
しかし弥生はどうなる? 私は3月12日生まれで弥生は3月20日生まれ。お互いに早生まれで誕生日も8日しか違わないが、確実なのはたとえ8日だけだとしても私のほうが早く生まれている。
ただ……、兄の嫁になる人からみれば、兄の妹である私は兄嫁の義理の妹になる。と、いうことは。
「わたし、弥生のことお姉ちゃんって言うわけぇ!」
思わず出た大声で自分自身が驚いてしまった。みさきはゆっくりと弥生のほうを向く。突然の大声に南弥生は目を点にしたまま、その場に凍りついてしまっていた。
「あ……」
「み、みさき……、ちゃん?」
まだ弥生はみさきが叫んでしまった言葉の意味を理解していない。
「いや、なんでもない。なんでもないからねっ」
「みさきちゃんが、わたしの事を?」
「なんでもないのっ! いいから忘れなさいっ! 忘れてえっ!」
「お姉さん?」
体が硬直したまま、弥生の目だけが上を向いた。言葉の意味を考えているのだ。
「わーすーれーてぇー!」
みさきの悲痛な叫びをよそに、弥生の遅い思考が回りだす。やがて目が正面を向き直った時、顔色が一瞬にして真っ赤に染まった。
「わ、わ、わ、わたしが……、みさきちゃんの……、義理の……、お姉さんに……」
弥生は両手で顔を押さえ、これ以上はないというほどの幸せで壊れた表情をしながらその場にへたり込んでしまった。顔はもはや湯気でも出そうな程というか毛細血管が破裂したというか、そんな色をしている。
みさきは後悔した。猛烈に後悔した。
南弥生は恥ずかしがり屋である。さらに結婚願望が非常に強い。この場でこんなことを言ってしまったら、弥生がどうなるかなんてみさきには判りきった事だったのに。
まだ兄とも会っていない状態でこれでは、この後いったいどうなるのか予想もできない。
「あ、あのね、弥生。まだ高2でしょう。早生まれだから16才でしょう。今からそんなこと考えてどうするのよ」
「でっ、でっ、でも、16才ってもうけ、け、け、結婚でき……、わ、わたしと……、先輩が……、そしたら、みさきちゃんが」
「だいたいねえ、弥生はカッコイイ人が好きなんでしょ? センスも良くって、背も高くて、一見不良っぽくって、そんな感じが好みなんじゃなかったの?!」
「わ、わたし……、わたし」
「うちのお兄ちゃんなんて、センスはないわ、背もたいしたことはないわ、鈍感で頼りないわで、カッコイイというのとまるで正反対なのよ? それくらいあんたでも判るでしょ? いいかげんに目を覚ましなさいってば! 弥生の想像してた理想の人と全然違ってるのよ!」
「あ、あのね、みさきちゃん」
「なによ」
「わたし、みさきちゃんのこと、なんて呼べばいい?」
みさきは何か言うのをやめた。南弥生はうっとりした顔のまま、心が別の世界に飛んでしまっているかのようだ。
「い、いいのよ。バカなことを口走ったわたしが全部悪いのよ……」
「え? なあに、みさきちゃん」
「なんでもないっ! ったく、弥生の幸せ少しわけてほしいわ」
「ねえ、みさきちゃん」
「なによ」
「わ、わたし、頑張るからね」
「好きにしなさいよ、もお……」
しばらくたって身体に力を入れることができるまでに回復した南弥生は、みさきに連れられてゆっくりと歩きはじめた。
兄の面倒をみるのも大変だが、
「姉」の面倒を見るのもおそらく大変になりそうだと、みさきは思った。この二人が今後どうなるかは判らないが、みさきの頭の中ではすでに数年後のドタバタな風景が浮かび、頭痛を引き起こしている。
「ま、心配する人がいるだけましかもね。退屈だけはしないわ」
開き直るのもまた善し。みさきの口元に力のない笑みがこぼれた。